人材版伊藤レポートが突きつけたのは「開示項目を増やせ」ではなく、人事部門の位置づけそのものへの問いでした。人材をコストとして管理する組織から、資本として投資する組織へ。この転換が進まない理由と、推進担当が最初に握るべき相手を整理します。
上場企業の経営で、人的資本経営・PBR1倍割れ・サステナビリティーという三つの言葉が同時に飛び交うようになって数年が経ちます。
これらが相互に関連しているという指摘は、もう十分に流通しました。開示項目の整理は人的資本可視化指針19項目で、資本市場との接続はPBR1倍経営とサステナビリティーの接続で、それぞれ扱っています。
ここで扱いたいのは、その手前にある、もっと居心地の悪い論点です。人材版伊藤レポートが本当に要求したのは、開示項目の追加ではなく、人事部門の位置づけそのものの転換だった、という点です。
2020年9月に公表された「持続的な企業価値の向上と人的資本に関する研究会 報告書」――通称、人材版伊藤レポート――が掲げた変革の方向性は、大きく二つでした(2022年5月には続編の「人材版伊藤レポート2.0」も公表されています。いずれも経済産業省の人的資本経営ページから辿れます)。
ひとつは、人材のマネジメントを「コストとして管理する」のではなく「資本として投資する」ものへ転換すること。もうひとつは、新卒一括採用と終身雇用に代表される「囲い込み」から、「選び・選ばれる」関係への移行です。
そして、そこから導かれる帰結が重い。人事の役割は、人事制度の改善ではなく、経営戦略と連動した人材戦略の立案である、と位置づけ直されました。
レポートはさらに踏み込んで、日本では人事部門が価値提供部門と見なされておらず、管理部門の一つとして扱われている、という構造そのものを問題として指摘しています。人的資本経営が根付かない原因を、担当者の能力ではなく組織の設計に置いた、ということです。
この5年、多くの企業が人的資本の開示を整備しました。それでも「人事が価値提供部門になった」と言える企業は、まだ多くありません。
理由は三つあると見ています。
第一に、評価の非対称です。人事部門は、労務トラブルを起こさなかったこと、採用予定数を満たしたこと、法改正に遅れなく対応したことで評価されます。いずれも減点を防ぐ仕事です。一方「この人材投資が3年後の企業価値をいくら押し上げたか」は、測るのも示すのも難しい。減点回避のほうが確実に報われる構造では、投資的な動きは後回しになります。
第二に、時間軸のずれです。人材への投資が財務に表れるまでには数年かかります。単年度予算と四半期決算のリズムの中では、効果が見えないうちに削られる対象になりやすい。これはサステナビリティー予算が調整弁にされる構造とまったく同じで、ESG予算を単年度の調整弁にしないで扱った問題と根が共通しています。
第三に、言語の断絶です。人事が語る「エンゲージメント」「働きがい」と、経営が判断に使う「資本コスト」「将来キャッシュフロー」の間に、翻訳の回路がない。だから議論が「大事だよね」で終わり、資源配分が動きません。
レポートが掲げた「選び・選ばれる企業になる」は、標語としては分かりやすいのですが、実装は簡単ではありません。
給与を上げる、というのは一つの答えです。即効性もあります。ただしこれは競合も打てる手なので、優位は長続きしません。
もう一つの道が、自社が社会に提供している価値を明確にすることです。何のために存在し、どんな課題を解いている会社なのか。これが言語化されていれば、報酬だけで比較されない選択肢になります。
ここでサステナビリティー戦略が効いてきます。ただし、きれいなパーパスを掲げれば人が集まる、という単純な話ではありません。効くのは、自分の日々の仕事がその価値にどう繋がっているかを、従業員が説明できる状態のほうです。パーパスの浸透をどう設計するかはパーパス経営と従業員エンゲージメントで扱っています。
サステナビリティー推進の側から見たとき、この論点には実務上の含みがあります。
人的資本は、サステナビリティー開示の主要項目でありながら、データも施策も人事部門が持っています。つまり推進担当は、自部門で完結できない開示項目を抱えている状態です。
ここで多いのが、開示の締め切りが近づいてから人事にデータを依頼し、「そんな粒度では取っていない」と返されるパターンです。毎年これを繰り返している企業を、少なからず見ます。
避ける方法は一つで、開示の話をする前に、人事の課題から入ることです。人事部門にも、経営に対して「人材投資の必要性」を通したいという動機があります。そこに、資本市場が人的資本をどう見ているかという材料を持ち込めれば、推進担当は要求者ではなく共同提案者になれます。
この構図は、事業部門を巻き込むときの考え方(サステナを自部門の話に変える)とも重なります。相手の議題に自社の議題を乗せる、という順序です。
人的資本経営・PBR・サステナビリティーを一本の線で語ろうとすると、たいてい資本市場向けのストーリーの話になります。それ自体は正しいのですが、そこだけを整えると、開示は立派で実態が動かない状態になります。
人材版伊藤レポートが問うたのは、もっと手前でした。自社の人事部門は、管理部門なのか、価値提供部門なのか。この位置づけが変わらないまま開示項目だけ増やしても、集めるデータが増えるだけです。
指標の羅列で終わらせないための設計は人的資本を指標の羅列で終わらせないで扱いました。ただ、その前段として、誰がその物語の当事者なのかを決めておく必要がある――というのが、この記事で言いたかったことです。
【ご相談窓口】 弊社(株式会社KI Strategy)では、人的資本戦略とサステナビリティー戦略の接続、人事部門との協働設計の伴走支援を実施しています(専門家プラットフォームSasla経由のご相談も可)。人的資本の開示と実態が乖離していると感じておられる方は、お話を聞かせていただければと思います。
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