TCFDが役割を終え、IFRS S2/SSBJへ移ったいま、気候シナリオ分析は「やるかどうか」ではなく「どこまでやるか」の問題になりました。1.5℃と4℃を並べただけの表で終わらせないために、シナリオの選び方・分析範囲の絞り方・経営の意思決定への接続を整理します。
この記事を最初に書いた2021年、シナリオ分析は「TCFD対応で新しく求められるもの」でした。いまは前提が変わっています。TCFDは2023年10月に役割を終え、開示の枠組みはIFRS S2とSSBJへ引き継がれました。移行の全体像はTCFDから卒業しIFRS S2/SSBJへで扱っています。
枠組みは変わりましたが、気候シナリオ分析そのものは消えていません。むしろIFRS S2では、気候関連リスクへのレジリエンス(強靭性)の評価にシナリオ分析を用いることが求められ、位置づけはむしろ重くなっています。
そこで論点は「やるかどうか」ではなくなりました。どこまでやるかです。
なお、中期経営計画づくりで使う一般的なシナリオプランニング(シェル発祥の方法論、PESTやドライビングフォースの設定など)は中期経営計画の策定と長期戦略で扱っています。この記事は気候に絞ります。
開示された気候シナリオ分析を読んでいて、いちばん多いパターンがこれです。1.5℃シナリオと4℃シナリオを左右に並べ、それぞれに「炭素税の負担増」「大雨による操業停止リスク」と書いて終わる。
この形式が量産される理由は、担当者の怠慢ではありません。分析範囲を決めないまま始めると、必ずこの粒度に落ち着くという構造的な問題です。
全社・全事業・全拠点を対象にすると、事業ごとの固有事情を書ききれないので、どの事業にも当てはまる一般論しか残りません。結果として、他社の開示と見分けがつかない2枚の表になります。
抜け出す方法は逆で、対象を絞ることです。 主要事業を2つか3つに絞り、そこだけ深く見る。IFRS S2が求めているのは網羅性ではなくレジリエンスの評価なので、重要な事業について深い分析があるほうが、全事業を薄く均した表より開示としての質は高くなります。
シナリオは自作するものではなく、公表されている外部シナリオを引いてくるのが実務の標準です。主に三系統あります。
**移行リスク(政策・技術・市場の変化)**には、IEA(国際エネルギー機関)World Energy Outlookのシナリオが広く使われます。NZE(Net Zero Emissions by 2050)、APS(Announced Pledges)、STEPS(Stated Policies)の三つが基本形で、それぞれ「1.5℃相当」「各国の表明どおり」「現行政策の延長」に対応します。炭素価格やエネルギー需給の前提値がとれるので、財務インパクトの試算に接続しやすいのが利点です。
金融機関や、より精緻な移行分析には、NGFS(気候変動リスク等に係る金融当局ネットワーク)のシナリオポータルのシナリオ群があります。秩序ある移行・無秩序な移行・温暖化進行という軸の切り方が、移行リスクと物理リスクの相対関係を語るのに向いています。
**物理リスク(気象災害・慢性的な気温上昇)**には、IPCCのSSP/RCPシナリオを使います。拠点の水害・渇水リスクを見るときは、これに自治体のハザードマップを重ねることになります。
実務的な指針としては、移行リスクはIEA、物理リスクはIPCCを軸に据え、必要に応じてNGFSで補うのが、説明のしやすさとデータの取りやすさのバランスがよいところです。そして重要なのは、どのシナリオのどの版を使ったかを開示に明記することです。ここが曖昧だと、数字の検証可能性が失われます。
シナリオ分析が形式化する、もうひとつの原因が出口の欠如です。分析結果が開示書類にしか使われないと、翌年は前年の表を更新するだけの作業になります。
接続先として現実的なものが、いくつかあります。
ひとつは、設備投資の判断基準です。移行シナリオから得た炭素価格の見通しを、社内カーボンプライシング(ICP)の価格水準の根拠に使う。これは投資判断のハードルレートに直接効くので、分析が「使われている」状態になります。
もうひとつは、拠点戦略です。物理リスク分析で洪水リスクが高いと出た拠点について、BCPの見直し、保険の付保条件、長期的な移転の検討につなげる。ここは事業部門と防災・総務がすでに持っている論点なので、接続すると相手側にも利益があります。
三つめが、移行計画です。シナリオ分析でリスクが特定されたのに移行計画がない状態は、開示上も説明が苦しくなります。着手判断はネットゼロ移行計画に着手すべきかで整理しています。
逆に言えば、接続先を先に決めてから分析範囲を設計するのが正しい順序です。「ICPの価格水準を決めるために移行シナリオを引く」と目的を先に置けば、必要な粒度と対象範囲はおのずと決まります。目的を決めずに分析から入ると、何をどこまでやれば終わりなのかが誰にも分からなくなります。
最後に、担当者が過剰に悩みがちな点を一つ。
シナリオ分析の数値は、当たりません。2050年の炭素価格も、特定拠点の被災確率も、精緻に予測できるものではありません。ここで精度を追い求めると、いつまでも公表できなくなります。
開示で問われているのは予測の的中率ではなく、どの前提を置いて、どう考えたかが第三者に追えるかです。使用したシナリオ名と版、対象範囲、時間軸、財務インパクトの試算方法、そして「ここは不確実性が大きい」と考えている箇所。これらが書いてあれば、数値そのものが粗くても開示として成立します。将来の保証を見据えても、検証可能なのは前提と手順のほうです。
不確実性を消そうとするのではなく、不確実性を前提に置いたまま意思決定を前に進める。シナリオ分析が本来そういう道具だという点は、2021年にこの記事を書いたときから変わっていません。
【ご相談窓口】 弊社(株式会社KI Strategy)では、気候シナリオ分析の設計から、ICP・移行計画・拠点戦略への接続までの伴走支援を実施しています(専門家プラットフォームSasla経由のご相談も可)。分析が形式化していると感じている方は、お話を聞かせていただければと思います。
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