IFRS S2は「移行計画を作れ」とは求めていません。「持っているなら開示せよ」と求めています。この非対称が、作らないほうが短期的には安全という歪んだ誘因を生みます。自社は移行計画に着手すべきか、するならいつからか。書き方の前に決めるべき論点を整理します。
この記事は、2021年のCOP26で英国がネットゼロ移行計画の開示方針を表明した直後に書いたものです。当時は「TCFDの次に来るもの」という位置づけでした。
あれから制度は動き、いまや移行計画は「次に来るもの」ではなく、開示の枠組みのなかに組み込まれた要素になっています。その前提で、内容を書き改めます。
ただし、ここで扱うのは移行計画の書き方ではありません。書き方は移行計画(トランジションプラン)の書き方で詳しく整理しています。この記事が扱うのは、その手前です。そもそも自社は移行計画に着手すべきなのか、するならいつからか。
英国では2022年にTPT(Transition Plan Taskforce)が立ち上がり、2023年10月に開示フレームワーク、2024年4月に業種別ガイダンスを公表しました。その成果は2024年にIFRS財団へ移管されています。
そしてISSBが2025年6月に、移行計画開示の補足ガイダンスを公表しました(IFRS財団)。IFRS S2のパラグラフ14(a)(iv)で当初から求められていた「主要な前提」「依存関係」の書き方が、ここで具体化されています。
日本でも、SSBJ基準がIFRS S2を土台にしている以上、同じ構造がそのまま入ってきます。2021年の「英国が言い始めたらしい」という段階から、「自社の有価証券報告書に載りうる項目」へ、5年で位置づけが変わったということです。
ここで多くの担当者がぶつかる、制度上の非対称があります。
IFRS S2は「移行計画を作れ」とは求めていません。「移行計画を持っているなら、その内容を開示せよ」と求めています。
字面だけ追うと、これは持たざる者に有利に働きます。計画を作れば、前提・依存関係・資源配分・進捗を開示する義務が生じ、翌年以降は計画とのギャップを説明し続けることになります。作らなければ、その義務は発生しません。しかも将来の保証(アシュアランス)の対象にもなりうる。法務や経営企画が「いま作る必要はないのでは」と言いたくなる誘因は、制度の構造そのものに埋め込まれています。
この歪みを認識しないまま「移行計画を作りましょう」と稟議に上げると、まず通りません。担当者が説得すべき相手は、環境意識の低い経営層ではなく、この非対称を正しく理解している法務・経営企画だからです。
反論の組み立て方は二つあります。
ひとつは、時間の非対称で返すこと。移行計画は思いつきで書けるものではなく、設備投資計画・調達戦略・事業ポートフォリオの見直しと連動して初めて成立します。要請が来てから着手すると、間に合わないのは計画書ではなくその裏づけとなる社内の合意形成のほうです。「作らない」の実質は「先送り」であって「回避」ではありません。
もうひとつは、開示以外の経路から要請が来る点を示すこと。CDPの質問書、SBTiの認定プロセス、取引先からの調達アンケート、金融機関のエンゲージメント。いずれも移行計画に相当する情報を求めてきます。有価証券報告書に書かない選択はできても、これらすべてを断る選択は現実には難しいはずです。
着手時期は、外部要請の有無ではなく、自社の設備投資サイクルから逆算するのが実務的です。
移行計画の骨格は、結局のところ「いつ、何に、いくら投資して、排出を減らすか」です。この意思決定は中期経営計画の策定サイクルに乗せるしかありません。次の中計策定が2年後なら、移行計画の議論はその1年前には始めておかないと、計画期間中の投資枠に反映されません。
逆に言えば、中計策定のタイミングを外すと、次の3年間は「目標だけあって投資の裏づけがない移行計画」になります。これが、公表された移行計画の多くが「絵に描いた餅」と評される最大の理由です。開示の締め切りではなく、社内の予算プロセスの締め切りから逆算してください。
移行計画は、サステナビリティー部門だけでは絶対に書けません。必要な合意を、取りやすい順ではなく外せない順に並べると、次のようになります。
第一に、経営企画。中計との連動がなければ移行計画は成立しないので、ここが最初です。ここを飛ばして先に対外公表すると、後から中計と矛盾して回収不能になります。
第二に、財務・経理。移行に伴う投資額と、それが減損や資産の耐用年数の見直しにどう影響するかは財務の領域です。移行計画の「依存関係」の開示では、ここが実質的な争点になります。
第三に、事業部門。削減の実行主体は事業部です。全社目標を割り振る前に、各事業部が何を実現可能と考えているかを聞いておかないと、積み上げと全社目標が乖離します。この社内の通し方はサステナを自部門の話に変えるでも扱っています。
取締役会は最後で構いません。むしろ、上の三者の合意が取れていない状態で取締役会に上げると、「で、事業部はやれると言っているのか」の一言で差し戻されます。
ここまでの三点、つまり「作らないという選択の実質は先送りであること」「着手時期は中計サイクルから逆算すること」「合意は経営企画→財務→事業部の順に取ること」を社内で整理できたら、次は中身の設計に移ります。
主要要素の構成、「主要な前提」と「依存関係」の書き分け、進捗をどう率直に開示するかについては、移行計画(トランジションプラン)の書き方を参照してください。Scope1〜3の算定が土台になるので、まだ算定が固まっていない場合はScope3カテゴリ1算定で止まる担当者へも併せてどうぞ。
移行計画は、開示書類を1本増やす作業ではありません。自社の事業がこの先どう変わるかを、投資額つきで宣言する行為です。だからこそ重いし、だからこそ先送りされます。重いものだと理解したうえで、いつ着手するかを自社で決める。それがこの記事の主題でした。
【ご相談窓口】 弊社(株式会社KI Strategy)では、移行計画の着手判断から中期経営計画との接続、社内合意形成までの伴走支援を実施しています(専門家プラットフォームSasla経由のご相談も可)。作るべきか迷っている段階でも、お話を聞かせていただければと思います。
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