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人的資本を指標の羅列で終わらせない|価値創造ストーリーの立案と社内浸透|SIA

人的資本開示が「19項目の穴埋め」で止まるのは、人材戦略が事業価値を生む因果を1本の線で描けていないからだ。2026年3月、可視化指針自体が「戦略に焦点をあてた開示」へ舵を切った。価値創造ストーリーをどう立案し、人事部・経営・現場へどう浸透させ、財務へどう翻訳するか。判断の順序を整理する。

people strategy value creation workforce talent narrative office collaboration whiteboard
FIG. 01 / people strategy value creation workforce talent narrative office collaboration whiteboardPHOTOGRAPHY / ARCHIVE

「19項目、ひととおり埋めました。でも何かが足りない気がして」——人的資本開示をめぐって私たちが受ける相談は、ここ2年ほどで色が変わった。以前は「何を書けばいいか分からない」だった。いまは「書いたのに刺さらない」だ。女性管理職比率も、男性育休取得率も、研修時間も、前年比つきで並んでいる。並んでいるのに、投資家からも社内の役員からも、手応えが返ってこない。

理由は、たいていひとつに収束する。指標は並んでいるが、その指標が自社の事業価値をどう生むのか、という筋が描けていない。穴埋めは終わっているが、物語が始まっていない。本稿の問いはここだ——人的資本を「19項目を埋める開示作業」から「自社の人材戦略が事業価値をどう生むかの価値創造ストーリー」へ引き上げるとき、何をどの順で決め、それを誰にどう浸透させるか。

なお、どの項目をどう開示するか(what)は別稿人的資本可視化指針19項目で差をつけるで扱った。本稿は重複を避け、why/how——ストーリーとしての立案と社内実装——に絞る。

いま、指針そのものが「項目」から「戦略」へ動いた

押さえておきたい前提がひとつある。2026年3月23日、内閣官房・金融庁・経済産業省が人的資本可視化指針を改訂し、その別紙を「戦略に焦点をあてた人的資本開示〜投資家の期待に応えるための考え方の整理〜」とした(内閣官房)。改訂版は、開示の本質を「数字を並べること」ではなく「ストーリーを語ること」に置き、企業が自社の経営戦略と人材戦略の関係を統合的に描くことを促している(内閣官房・人的資本可視化指針改訂版別紙)。

つまり、項目の網羅で勝負する時代は、制度の側からも終わりを告げられた。元になった2022年8月の指針も、7つの領域にわたる19項目の開示事項を示しつつ、その狙いは経営戦略と人材投資の連動を統合的なストーリーとして示すことにあった(内閣官房・非財務情報可視化研究会)。19項目はもともと「埋めるチェックリスト」ではなく「ストーリーの材料」だった、ということだ。

それでも現場が穴埋めに寄ってしまうのは、ストーリーの組み立て方が難しいからにほかならない。だから本論の主役は、その組み立ての判断になる。

ストーリーの芯は「自社の利益構造×人材」の因果から逆算する

価値創造ストーリーの立て方は、実はマテリアリティの決め方と同じ作法だ。他社の統合報告書を集めて頻出表現を真似ても、芯はできない。芯は、自社の損益計算書とバリューチェーンの中にある。

決めるべきは、突き詰めると3つ。

(1)自社の利益は、どの人材で生まれているか

売上と原価のどこに、人材が決定的に効いているか。労働集約的な小売やサービス業なら、現場の定着率と生産性が売上の天井を決める。研究開発や専門サービスなら、特定スキル人材の獲得・維持が事業の競争力そのものだ。製造業の事業転換期なら、リスキリングの達成率が新事業の立ち上がり速度を左右する。業種で「効く人材」は違う。だから他社のストーリーは借りられない。

(2)その因果を1行で言えるか

「エンゲージメントは大事です」では役員会を通らない。通るのは「当社の主力事業は現場の専門人材に依存しており、定着率が1pt動くと採用・育成コストと欠員による機会損失で◯◯円効くため、エンゲージメント向上を人材戦略の柱に据える」のように、人材施策→自社の特定の数字、という因果が1行で言い切れる形だ。1行で言えない指標は、まだストーリーの材料になっていない。

(3)その因果は、財務の言葉に両替できるか

ここが項目開示と価値創造ストーリーを分ける関門だ。投資家も役員も、思考は財務でできている。だから人材の話を、離職コスト・労働生産性・将来キャッシュフローへ翻訳する。役員会を通す翻訳の作法そのものはサステナ用語を経営の言語に翻訳するで詳しく扱ったが、人的資本ではとくに次の2本が効く。

人材の論点財務への両替役員・投資家に効く問い
離職率・定着率1人あたり採用+育成コスト×離職者数+欠員期間の機会損失「定着が1pt改善したら、いくら浮くのか」
エンゲージメント・スキル1人あたり付加価値(労働生産性)の変化×従業員数「この投資は、生産性のどの数字に出るのか」
リスキリング達成率新規事業の立ち上がり速度→売上計上の前倒し「人材が揃わないと、新事業はいつズレるのか」

離職コストは社内で「肌感ではわかっている」のに、数字になっていないことが多い。採用広告費・エージェント手数料・受入研修工数・戦力化までの低稼働分・欠員期間の残業や外注を足し上げるだけで、役員の表情が変わる金額になる。ここを自社試算でいいから出す。それが、ストーリーを「作文」から「経営仮説」へ変える。

実態調査も「指標は並ぶが因果が描けていない」と指摘する

私たちの肌感は、開示の調査にもはっきり出ている。デロイト トーマツがTOPIX100構成銘柄を対象にした「有価証券報告書における開示実態調査2024」(2024年8月30日公表)は、経営戦略と紐づけた価値創造ストーリーを開示できている企業は限定的だと指摘した(デロイト トーマツ)。指標は並ぶ。だが、それが自社の価値創造にどう繋がるかの筋が描けていない。

人的資本に絞った分析でも傾向は同じだ。PwCが東証プライム上場の非金融1,014社の2025年3月期有価証券報告書を分析したところ、開示量は増えつつも、人的資本の取組と事業戦略・企業価値の結びつきに課題が残ると整理された(PwC Japanグループ)。量は出た。結合がまだ、という段階だ。

ここに、制度の追い風も重なる。2026年3月期以降の有価証券報告書では、企業戦略と関連づけた人材戦略、従業員給与等の決定方針、平均年間給与の対前年比増減率の記載が見直され、経営戦略→必要な人材像→獲得・育成・処遇→結果としての給与水準までを一気通貫でつなぐことが求められる方向にある(EY Japan)。戦略から給与まで一本の線でつなげ、という要請は、価値創造ストーリーそのものを制度が要求し始めた、ということにほかならない。

立てた筋を、人事部・経営・現場へどう浸透させるか

ここから二段目。ストーリーは作って終わりではない。社内で実装されなければ、翌年の開示でまた穴埋めに戻る。浸透の相手は3者で、それぞれ握っているものと、抵抗の出方が違う。

相手握っているもの起きがちな抵抗効く渡し方
人事部データの正確性・人材施策の実務「開示は人事の仕事を増やすだけ」ストーリーの主語を人事の戦略に。データ取得の負担を減らす指標設計
経営中期経営計画・最終承認「で、どの数字に効くのか」離職コスト・生産性への財務翻訳と中計との接続
現場施策が本当に効いているかの実態「数字が独り歩きしている」KPIの裏にある現場の手応えを取材し、筋に織り込む

順序を間違えないこと。先に人事部だけで作ると「人事の作文」になり、役員会で「どの数字に効くのか」で崩れる。先に経営だけで作ると、現場の実態から浮いた絵空事になる。私たちが伴走で勧めるのは、経営が握る中計の柱から人材戦略を逆算し、人事部がデータで裏打ちし、現場が実態で検証するという三者の往復だ。手間はかかる。だが、この往復を経たストーリーは、誰が説明しても崩れない。

とりわけ人事部の巻き込みが肝になる。人的資本開示は人事部単独では作れない。サステナビリティ部門のマテリアリティ整合、IRの投資家視点、経営企画の中計接続が要る。だが部門横断は、号令だけでは動かない。社内の合意形成そのものをどう設計するかはESGの社内合意を取りつけるで扱った勘所がそのまま使える。

そして、立てたストーリーを最も効果的に語れる器が統合報告書だ。有報の義務開示で比較可能性と法令遵守を担保し、統合報告書で投資→KPI→財務の因果を一枚絵で深掘りする。この役割分担を最初から設計しておけば、媒体ごとに同じデータを作り直す二度手間も防げる。

まとめ

人的資本開示が指標の羅列で終わるのは、能力の問題ではない。順序の問題だ。19項目を埋めてから物語を探すのではなく、自社の利益がどの人材で生まれているかの因果を先に1行で固め、それを離職コストと労働生産性という財務の言葉へ両替し、その筋に19項目の数字を後から接続する。順序を逆にしない。

そして筋は、立てて終わりではない。データを握る人事部、承認する経営、実態を握る現場——この三者を往復させて初めて、誰が説明しても崩れないストーリーになる。2026年3月、可視化指針自体が「戦略に焦点をあてた開示」へ舵を切ったいま、項目の網羅で差はつかない。差がつくのは、人材戦略を事業価値の因果として語り切れるかどうかだ。

もっとも、自社の利益構造と人材の因果を言葉にする作業は、社内だけだと「うちには語れるストーリーがない気がする」という袋小路に入りやすい。離職コストの試算や、役員会で崩れない筋づくりなど、外の目を一枚入れたい論点では、当サイト運営元の株式会社KI Strategyや、定額でサステナビリティ専門家に相談できるSaslaも使える。最初の一歩は、正解探しではなく、自社の因果を一緒に言語化することだ。

本記事は2026年6月時点の公開情報(内閣官房・金融庁・経済産業省、デロイト トーマツ、PwC Japanグループ、EY Japanの各リリース・解説)をもとに整理した。人的資本可視化指針の運用や有価証券報告書の記載要請は各社の状況や今後の改正により異なるため、最終的な判断は基準設定主体・規制当局の最新リリースで確認することを推奨する。

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KI Strategy 編集部所属。ESG・サステナビリティを軸に、開示と意思決定を貫くロジックを編む。

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